食料問題を考える(1)日本人の食生活はどう変わってきたのか?(前編)

長浜市小谷上山田町(筆者撮影)

by 松島三兒

ロシアによるウクライナ侵攻が起きて以来、ウクライナの都市が破壊され、人々が悲惨な状況に追いやられていく様子を伝えるニュースを、1日も早く平和が訪れてほしいと祈るような気持ちで日々見ています。この理不尽な戦争とそれに伴う経済制裁の影響により、私たちは今、エネルギー、食料、防衛という国の基本的な安全保障にかかわる課題に直面しています。

今回の特集では食料に焦点を当てて考えていきます。

(今回の内容)
1.はじめに
2.戦後の食生活と食料消費構造の変化
 2-1.戦後復興期
 2-2.高度経済成長期
 2-3.安定成長期からバブル期
 2-4.バブル崩壊後
 (2-2以降は次回投稿に掲載します)

1.はじめに

この1月以降、パン、小麦、食用油、冷凍食品、肉加工品などが次々と値上げされ、4月以降も乳製品などの値上げも予定されています(1)。これらの価格上昇は原油高による物流費や食料生産コストの高騰や、南米・北米での高温乾燥等による穀物価格の高騰(図1)等によりもたらされたものですが、ロシアのウクライナ侵攻に伴う円安の進行やシカゴ相場の最高値更新などが価格上昇にさらに拍車をかけています。特に小麦のシカゴ相場は、「3月3日には、過去最高の 2008 年2月27日の最高値(12.80ドル/ブッシェル)を上回り、3月7日には史上最高値となる14.25ドル/ブッシェル」(2)を記録しています。

(出所)(1)p.8.
図1 穀物等の国際価格の動向

こうした不安定な食品供給による影響を軽減するためには食料自給率を向上させる必要がありますが、図2に示すように日本の食料自給率(供給可能熱量ベース)はほぼ一貫して下がり続け、2020年度はわずか37%となっています。供給可能熱量ベースの食料自給率の達成目標は、元々2020年・50%でしたが、現実味に欠けるとして2015年の「食料・農業・農村基本計画」では2025年・45%に変更しました。同時に「食料自給力」という指標を導入し、食料生産に充てる農地(荒廃農地を含む)の確保や労働充足率の向上、単収の向上等を見込んだ場合、1人・1日当たり最大どの程度の熱量供給が可能かについての試算値を示すようにしました(3)。いわば「取らぬ狸の…」というわけですが、現実には農地面積や労働力は年々減少しており、食料自給力は低下しつつあります。

(出所)農林水産省「食料需給表」  https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/fbs/
図2 日本における総合食品自給率(カロリーベース)の推移

2020年の「食料・農業・農村基本計画」では2025年・45%の達成は困難として、達成目標を2030年・45%へと先送りします。併せて、「食料国産率」という指標を初めて導入しました。これは「我が国畜産業が輸入飼料を多く用いて高品質な畜産物を生産している実態に着目し、(略)飼料が国産か輸入かにかかわらず、畜産業の活動を反映し、国内生産の状況を評価する指標」(4)で、言い換えれば飼料自給率を考慮しない総合食料自給率です。飼料自給率を考慮する場合に比べ、当然値は大きくなります。2020年度の供給熱量ベースの総合食料自給率は37%ですが、食料国産率は53%となります。

食料自給率の惨状を覆い隠すだけに見えてしまう「食料国産率」ですが、この指標が設定されたことについて東京大学の鈴木宣弘教授(5)は、飼料を国内で供給できる体制の整備の必要性を認識し、「不測の事態の安全保障の議論を深める機会にすべき」だと述べています。飼料全体の自給率は25%ですが、供給される飼料の8割を占めるとうもろこし、大豆油粕等の濃厚飼料の自給率は12%程度にすぎません(6)。自給率の達成目標として、2025年までに飼料全体で40%、濃厚飼料で20%という値が設定されていますが、ここ10年以上飼料自給率は横ばいで目標達成の道筋は見えていません。

そこに3月31日付けで飛び込んできたのが、日清食品が、東京大学と共同で「食べられる培養肉」の作製に日本で初めて成功したとのニュース(7,8)です。ご存知の方も多いと思います。培養肉については、従来の食肉に比べて温室効果ガスの排出だけでなく、農地や水の使用も削減できる技術として環境問題との関わりで語られることが多いですが、産業化に成功すれば飼料供給の問題を解決し、食料自給率の向上につながることが期待される技術なのです。

将来に明るい希望を与えてくれる培養肉については改めて論じることとし、ここではまず、日本の食料自給率がなぜ改善することなく下がり続けてきたのかという点を見ていきましょう。農業政策を担ってきた農林水産省はどう考えているのでしょうか。2008年当時食料安全保障の責任者を務めていた末松広行は、食料自給率が低下したのは「日々の食生活の変化と、食料の消費構造の変化と農業生産のズレの両面に起因している」(9)と述べています。末松は「主な先進国で、わが国ほど食生活が変化した国は韓国以外に類をみない」と指摘し、食料の消費構造が変わらなければ農業政策の方針が立てやすかったと言います(10)。

日本における食生活の変化、食料消費構造の変化とはいったいどんなものだったのでしょうか。1945年の太平洋戦争終結まで遡ってみていきましょう。

2.戦後の食生活と食料消費構造の変化

終戦直後の日本人の生活は困窮をきわめました。食料や物資の不足により、戦中からとられていた配給制度(11)は実質的に破たんします。そのため衣類等を売ってお金を工面し、農家に買い出しに行ったり闇市で必要なものを手に入れたりするといったことが行われました。

こうした混乱した状況を乗り越えて日本は復興を遂げていきますが、その後の日本人の食生活の変化には日本の経済状況や日本が置かれた政治状況が大きく関わっています。戦後日本の経済史は4つの期にわけて論じられることが多いので、本稿でもそれに倣ってみていきます。1945年から1955年までの「戦後復興期」、1955年から1973年までの「高度経済成長期」、1973年から1991年までの「安定成長期」、そして1991年以降の「バブル崩壊後」です。

2-1.戦後復興期

戦後日本の占領政策を担った連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、配給制度が破たんする事態に陥っていることを懸念してアメリカ政府にはたらきかけ、1946年に米国から日本への食料輸出が解禁されました。日本への食料供給に対しては連合国からの反対の声があがりましたが、当時の日本では劣悪な食糧事情に対する不満が鬱積しており、これが暴動に発展することを恐れたGHQが日本への食料援助を強硬に要求し押し切りました(12)。1946年6月に米国内に設立されたアジア救援公認団体LARA(Licensed Agencies for Relief in Asia)による食料支援等(13)もあり、日本に多くのアメリカ産の食料が輸入されることとなりました。LARAによる救援物資は「ララ物資」と呼ばれ、活動を終了する1952年までの「約5年半の間に、当時の金額にして1,100万ドル、日本円で400億円に相当する、総量3,300万ポンド、約155,000トンの救援物資」が送られ、約1,400万人に配分されました(14)。救援物資の4分の3が食料でした。

輸入された食料のなかで一番多くを占めたのは、アメリカで余剰農産物とされていた小麦であり、無償供与された脱脂粉乳とともにパン食が学校給食に取り入れられるようになっていきました。1954年に制定された学校給食法によりパン食を基本とする給食体制が確立され、子どもたちの食の好みにも影響を与えることとなりました。洋風の給食は「当時の日本人にとっては魅力的な食べ物であり、学校給食をうらやむ大人もあったくらい」(15)だと言われています。

(写真提供元)独立行政法人日本スポーツ振興センター  https://www.zenkyuren.jp/lunch/replica_image_menu.pdf
図3 1955年の給食例

またこの時期には、日本が経済的に復興するきっかけとなる出来事が起きました。1950年6月に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国との間に生じた朝鮮戦争です。アメリカ軍は日本を前進基地とし、日本で戦争物資を調達したほか、戦争車両や軍用機の修理なども日本で行いました。その結果、朝鮮戦争が休戦となる1953年7月までの3年間の特需収入は総額24億ドルにのぼるなど、日本経済を大幅に回復させる浮揚力となりました(16)。

1950年代半ばには太平洋戦争前の経済水準を取り戻しましたが、戦争による経済浮揚は一時的なものにすぎません。1956年の「年次経済報告」(17)は、「回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」とし、「もはや『戦後』ではない」と断じました。

今回は、戦後復興期の動きとして、アメリカからの食糧支援を通じて食糧難が解消に向かったこと、またパン食を基本とする給食により子どもたちを中心に食の洋風化が進みつつあることを書きました。

次回はいよいよ高度経済成長期以降の変化を見ていきます。1960年代以降は統計資料も揃ってきますので、データを使いながら説明していきます。

(次回に続く)

参考文献・注記

(1)「コンビニ、スーパーの定番も…2022年、値上げされる食品や必需品【一覧】」東京新聞TOKYO Web, 2022-04-01.  https://www.tokyo-np.co.jp/article/163227

(2)農林水産省「食料安全保障月報(第9号)」2022-03-31.  https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/jki/j_rep/monthly/attach/pdf/r3index-59.pdf

(3)「日本の食料自給力」農林水産省ウェブサイト.  https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/012_1.html

(4)「食料自給率とは」農林水産省ウェブサイト.  https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/011.html

(5)鈴木宣弘「【食料・農業問題 本質と裏側】食料国産率は『ごまかし』なのか~実は飼料自給の重要性を認識させる~」農業協同組合新聞, 2020-03-19.  https://www.jacom.or.jp/column/2020/03/200319-40831.php

(6)農林水産省北海道農政事務所「我が国の飼料事情(国産濃厚飼料を巡る情勢)」北海道における濃厚飼料生産拡大セミナー資料, 2019-10-25.  https://www.maff.go.jp/hokkaido/suishin/attach/pdf/011025-1.pdf

(7)「日本初!『食べられる培養肉』の作製に成功 肉本来の味や食感を持つ『培養ステーキ肉』の実用化に向けて前進」日清食品ホールディングスプレスリリース, 2022-03-31.  https://cdn.nissin.com/gr-documents/attachments/news_posts/10516/41109c61d26e61ce/original/20220331-1.pdf?1648623527&_ga=2.48584806.1978335061.1648823861-640711439.1648823861

(8)「日清と東大、『食べられる』培養肉」日本経済新聞速報, 2022-03-31.  https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC3177A0R30C22A3000000/

(9)末松広行『食料自給率の「なぜ?」~どうして低いといけないのか?~』(扶桑社新書), 扶桑社. 2008. p.26.

(10)上掲書pp.37-39.

(11)日本における配給制度は、日中戦争戦時下における物資統制の必要性から1940年に砂糖、マッチの配給制度が始まり、翌1941年には米等の主要食料品も配給の対象となりました。米の配給制度は1981年まで続いたが、1969年の自主流通米制度発足をきっかけとして有名無実化しました。より詳しくは以下を参照。

「戦後復興までの道のり―配給制度と人々の暮らし」昭和館ウェブサイト.  https://www.showakan.go.jp/events/kikakuten/past/past20110723.html

(12)白木沢旭児「戦後食糧輸入の定着と食生活改善」『農業史研究』36: 10-20, 2002.  https://www.jstage.jst.go.jp/article/joah/36/0/36_KJ00009050278/_pdf/-char/ja

(13)川﨑愛「第二次世界大戦後の日本への援助物資―ララとユニセフを中心に―」『流通経済大学社会学部論叢』20(2): 119-128, 2010.  https://rku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1408&item_no=1&page_id=13&block_id=21

(14)西田恵子「戦後混乱期のララ救援物資に対する日本社会の応答―新聞報道の論調を中心に―」『常磐大学コミュニティ振興学部紀要』18: 1-23, 2014.  https://www.tokiwa.ac.jp/tokiwa/publication/community/pdf/community18.pdf

(15)大塚滋『パンと麺と日本人』集英社, 1997. p.132. 

(16)経済企画庁「昭和29年 年次経済報告」  https://www5.cao.go.jp/keizai3/keizaiwp/wp-je54/wp-je54-020104.html

(17)経済企画庁「昭和31年 年次経済報告」 https://www5.cao.go.jp/keizai3/keizaiwp/wp-je56/wp-je56-010501.html

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