バイオの世界に変革をもたらしたPCR、その発明者の自由奔放な生きざま
by 松島三兒
今や知らない人がいないと言っていいPCR検査。しかし、PCRやその発明者については意外と知られていないのでは…。
PCR検査とは
PCR検査…今回のコロナ禍で耳にタコができるくらい聞かされた言葉のひとつです。PCR検査を増やせ、増やさないで話題になりましたね。
そもそもPCRとは何でしょう。抗原検査は抗原の有無(あるいは量)を測定する検査、抗体検査は抗体の有無(あるいは量)を測定する検査のことなので、PCR検査もPCRの有無を測定する検査と思われがちですが、そうではありません。
PCRとはDNAを増やす技術のこと(注1にPCRの原理を示しておきます)。PCRを用いて目的のDNAを増やし、その有無を調べるのがPCR検査です。DNAは極微量で、DANが1分子だけあってもそれを測定機器で検出することはできません。そのため、DNAを機器で検出可能な量まで増やしてやる必要があります。
PCRは反応1サイクルでDNAが2倍に増えます。新型コロナについてはまず、ウイルスのRNAからDNAを合成します。合成したDNAを多くの国では40サイクル、すなわち2の40乗=約1.1兆倍に増やして、検出できれば陽性、できなければ陰性と判断しています。
マリス、PCRを思いつく
PCRが発明されたのは1983年です。発明者はサンフランシスコの小企業シータス社の研究者だったキャリー・マリス(Kary Mullis, 1944-2019)で、PCR発明の功績により1993年にノーベル化学賞を受賞しました。ノーベル賞を受賞するような研究者は研究一筋に打ち込む真面目な研究者というイメージを持たれる方も多いと思いますが、マリスはそうしたイメージをおもしろいほどに打ち砕いてくれます。
マリスが、自伝『マリス博士の奇想天外な人生』(注2)の中でPCRの発明についてどのように語っているかを見ていきましょう。
マリスがPCRのアイデアを思いついたのは、1983年5月に恋人ジェニファーとデートしているときでした。マリスはジェニファーを銀色のホンダシビックの助手席に乗せてドライブをしていました。運転をしながらマリスは、DNAの配列解読を簡単に行える方法はないかについて考えに耽っていきます。「ヘッドライトは木々を照らしていたが、私の目はなかばDNAがほどかれていく様子を見ていた」(注3)。
コンピュータ・プログラミングの心得があったマリスは、単純なルーチンを繰り返すことで大きな仕事を可能にするやり方をDNAに応用できないかと考えます。「まず、短いオリゴヌクレオチドを合成する。それを使って、長いDNA鎖上のある特定の地点に結合させる。そこを出発点として、DNA鎖のコピーを作る。これを何回も繰り返せば…。私は問題解決のすぐ近くにいるような気がした」(注4)
そして突然にPCRのアイデアがひらめきます。「『やった!』私は叫んでアクセルを離した。車は下りカーブの路肩に乗り上げて停止した。そばの崖から大きなトチノキが覆いかぶさって、ジェニファーが座っている助手席の窓に葉をこすりつけていた」(注5)。
恋人とのドライブ中に思いついたというエピソードはかなりインパクトがあったようで、いろいろな人の著作の中で紹介されています。1959年のノーベル生理学・医学賞受賞者アーサー・コーンバーグは、大手化学企業デュポンが仕掛けたPCRに関する裁判の中でマリスが「DNAポリメラーゼ使用のアイデアがガールフレンドとのドライブ中に浮かんだ経緯を、(中略)おもしろおかしく詳述した」(注6)と書いています。DNAが二重らせん構造であることを解明し、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞したジェームス・ワトソンは、PCRがひらめいたときマリスは月の光だけを頼りに曲がりくねった道を走っており、「これは命知らずのマリスにとっても非常に恐ろしい状況だった」(注7)と話を盛って紹介しています。
PCRのアイデアを思いついて喜び勇んだものの、マリスが会社に戻ってその話をしても、アイデアを評価してくれる人はほとんどいませんでした。それでも会社の人たちと話をしながら実験計画を立て、アイデア通りにDNAを増やすことができるかについて1983年9月に実験を始めます。しかし、1回目の実験は失敗に終わります。その後さまざまな改良を試みながら、3ヵ月後の1983年12月に始めて実験は成功します。
マリスとシータス社のPCR法に関する特許は、1985年に認可されました。これに対し大手化学企業デュポンは、PCR法のすべての構成要素は1969年に発表されたウィスコンシン大学ゴビンド・コラーナらの論文に記載されているとしてシータス社の特許に異議を申し立てる裁判を起こします。確かにPCRを構成している技術自体は新しいものではありません。しかし、マリス以前にPCRの概念を思いついた人がいなかったことも確かです。「独創的に有効で有意義だったのは、そうした既存の技術を組み合わせ、再構成した概念だった」(注8)のです。こうして、マリスらの特許を有効とする評決が下されます(注9)。
1973年に大腸菌でDNAを増やす方法が開発されていたので、おそらくPCRのような方法の開発を目指そうという研究者がほとんどいなかったのでしょう。マリスにしてもDNAの増幅法を開発しようとしてPCRを思いついたわけではありません。「思いついてしまった」というほうが正確かもしれません。しかし、思いついてしまった瞬間、PCRは「分子生物学の可能性と活動を根底から変え」(注10)るものとなったのです。
マリス、ノーベル賞をもらう
ノーベル賞を取るような研究者は研究一筋で品行方正な人が多いのかもしれませんが、マリスは違っていました。ノーベル賞受賞前の1993年春に、マリスはカリフォルニア大学バークレー校時代の恩師から次のように言われてしまいます。「今年のノーベル化学賞は君かもしれない。そうなる可能性は大いにある。しかしな、君ももう少しノーベル賞委員会に協力してやってもいいんじゃないか。つまり、まあ無理かもしれないが、君はマスコミにしゃべりすぎだってこと。ノーベル賞委員会にとってみれば、死ぬまで君にノーベル賞をあげなくても何の痛痒も感じる必要はないわけだしね」(注11)。マリスは、自身がLSDをやっていたことまでマスコミに話していたのです。
そんなこんなでノーベル賞をあきらめかけていたマリスでしたが、1993年10月13日の早朝ついにノーベル化学賞授与の電話がかかってきます。「『もらうよ、もらう!』と私は言った。もちろん、くれと言ってノーベル賞がもらえるものでもないことは百も承知していたが、これが嘘ではないことを確認しておきたかったのだ」(注12)。
その日の朝、サーファー仲間と約束があったマリスはサーフィンに出かけてしまいます。サーフィンを終えて帰ってくると、家の周りには新聞記者やテレビクルーに囲まれていました。「この年の他のノーベル賞受賞者のうち、誰がサーフィンに夢中になっているというのだ。私は格好の見出しにされた。『サーファーがノーベル賞獲得!』」(注13)。
センセーショナルに報じられたマリスのノーベル賞受賞ですが、それを快く思わない人たちもいました。PCR特許訴訟を仕掛けたデュポン側の専門家証言者でノーベル賞受賞者のアーサー・コーンバーグは次のように述べて、マリスの受賞がフロックであることを暗に匂わせています。「ノーベル賞の授与は終身記録の偉業をたたえるものではない。この選考基準は、受賞に値する多くの科学者から受賞の機会を奪った。逆に、受賞対象の研究前後には目立った業績がなくても、時機を得た発見のためスポットライトを浴びた受賞者も出た。事実、(中略)たった一回の示唆ある実験で、どんな科学者もノーベル賞を受賞し名士となるチャンスがある」(注14)。
マリスのシータス社時代の元同僚たちからも辛らつなコメントが寄せられています。ポール・ラビノウの『PCRの誕生』から引用してみましょう(注15)。
ランドール・サイキ「すなおに喜べない自分がちょっといやな気もします。(中略)ノーベル賞のせいで彼の話を聞く聴衆が増えて、話すたびに毎年のように尾鰭が付いていくことです。それは作り話です。(中略)われわれは喜んで、発明者の栄誉をキャリーに授けました。キャリーからのお返しはありません。もしわれわれがいなかったとしたら、彼一人ではできなかったでしょう。」
ヘンリー・アーリック「技術としてのPCRがノーベル賞選考委員会に認められたことは、とてもうれしかったですよ。でもねえ、マリス一人に賞が贈られたということは、マリスがそれを創ったという嘘が認められたということで、不満でした。」
マリスの性格からすると、こういった不満を抱かれるのもわかる気がします。しかし、科学の世界では、ゼロから1をつくる(マリス)ほうが、1を100にする(サイキやアーリック)よりもはるかに価値があるということもまた、事実なのです。マリスからすれば、その事実に忠実に従って行動しただけなのでしょう。その行動が他人にどう受取られるかはおろらく彼の関心事ではなかったに違いありません。
キャリー・マリスとは
キャリー・マリスを表現する言葉は、エキセントリック、奇行、不遜などネガティブなものが多いですが、マリス自身は、自伝の翻訳者である福岡伸一から、自分を形容するのにもっとも適した言葉は何かと問われ、「うーん、そうだな…オネスト(正直)だね」(注16)と答えています。私から見たマリスは、子どものような天衣無縫さ、自分への正直さ、巨大科学に対する不信感といったものを併せ持った人だと感じています。
子どものような天衣無縫さ
マリスは、自伝を読む限りにおいてですが、関心を持ったらとにかくやってみるといったところがあります。6歳で自分の部屋をもらうとドアに磁石で作動するロックを設置したり、7歳で通販の科学実験セットをもとに火薬をつくったりします。「アルミ粉、硝酸アンモニウムなどを混ぜ合わせ、アルコールランプの上で温めた。ぐつぐつ沸騰してきたところで火から下ろした。しかし反応は止まらない。液は真っ赤になって、それを入れていた試験官が割れ、突然、大音響とともに炸裂した」(注17)。普通だったら、これでびっくりして危ないことはやめようと思うところですが、マリスはちがいました。「サイエンスとはおもしろくなきゃいけない、ということが分かった」(注18)。
30代半ばで二人目の妻が離婚して出て行くと、マリスは空いたスペースに電子機材を入れ、左右の手首に電極をつけ、意志の力で皮膚の抵抗値を変化させられるか実験を始めます。つまらないことを考えたり、迷走状態になると抵抗値が上がり、興奮すると抵抗値が下がることを発見し、抵抗値を自在に変化させられるようになります。しかし、そのことを素晴らしいと言ってくれる人は誰もいませんでした(注19)。マリスが純粋な科学的興味によって突き動かされていることがわかります。
ノーベル賞をもらったのは50少し手前でしたが、授賞式に向かう前に友人から講演用にとレーザー・ポインターをもらいます。ストックホルムの暗い朝に飽きたマリスはレーザー・ポインターを手に取り、ホテルの部屋の窓から外の人が読んでいる新聞紙に赤い丸をつけたり、タバコを吸っているタクシー運転手の胸に赤い光を投射したりしているうちに、ホテルの部屋まで警官がやってくるという騒ぎを起こしてしまいます(注20)。これもマリスらしいと言えばマリスらしい事件です。やってみたらどうなるだろうという衝動を抑えることができないのです。
LSDの使用についても根は同じところにあるようです。そのことについても自伝では結構詳しく触れていますが、あえてここでは書きません。
巨大科学に対する不信感
もうひとつここで紹介しておきたいのは、多数の研究者と予算を必要とする巨大科学に対する不信感です。その不信感の前提には、国民全体の利益など誰も考えていないというマリス独自の信念というか諦観があります。政治も然り、宗教も然り、NGOも然り。世界が複雑化したことで、たとえば「政府の役割のほとんどは、きわめて専門的な技術領域に分散し、素人がつねに監視することはまったく不可能になってしまった」(注21)と言います。
国立衛生研究所(NIH)や国立海洋大気局(NOAA)などの公的研究機関は、素人たる一般大衆の税金で運営されているのに、一般大衆はその内部を検証することも困難だとして、次のように主張します。
「私たちは自分の頭で考えねばならないのだ。誰かが7時のニュースで地球上の気温が上昇傾向にあり、海洋が汚水で満たされ、物質の半分が時間を逆行していると言っても、それを鵜呑みにしてはならない。メディアは科学者の思いのままだ。科学者の中には、メディアを実にうまく言いくるめる能力にたけた人々がいる。そしてそのような有能な科学者たちは、地球を守ろうなどとは露も思っていない。彼らがもっぱら考えているのは、地位や収入のことである」(注22)
マリスは、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の地球温暖化に関する報告にも懐疑的であり、またエイズの原因がHIV(ヒト免疫不全ウイルス)であるということにも懐疑的です。HIVがエイズの原因だと明記した論文はないと言うのです。DNAの二重らせん構造を解明したジェームス・ワトソンはこれに対して苦言を呈しています。「彼は、エイズの原因はHIVではないとする見直し論者の説を支持し、彼自身の信用にも傷がついたばかりか、公衆衛生の取り組みにも害を及ぼすことになった」(注23)と。
マリスの主張は世界の科学者の大勢とは異なりますが、マリスなりに自分に正直であることを貫いたと言えるかもしれません。
終わりに
いかがだったでしょうか。マリスの人となりが少しは伝わりましたでしょうか。紙幅の関係で触れることのできなかった点も多々ありますが、ご容赦ください。
マリスには大学の研究者としての実績はほとんどありません。マリスは企業の研究者であり、自分が興したベンチャー企業で世間をあっと驚かせるような商品を開発したいと考える起業家でもあります。その性格も相まって、大学で研究実績を上げる正統な研究者からは異端視される存在です。私自身、マリスのことは理解できると思いつつも、マリスのような人間が近くにいたらきっと我慢できないだろうなとも思います。
科学の発見や発明は、それ自体も重要ですが、そこに関わった研究者たちの生身の人間としてのストーリーも興味深いものです。PCRというバイオの世界の王道に位置する技術が、キャリー・マリスという主流に位置づけられない研究者により開発されたという事実も私たちの関心をそそります。関心のある方は、ぜひマリスの自伝『マリス博士の奇想天外な人生』をお読みください。
キャリー・マリスは2019年8月7日、74歳の生涯を閉じました。最後に、マリスがノーベル賞授賞式での講演に触れた一節を紹介して、今回の投稿を締めくくりたいと思います。
「それから私は話を進めた。科学とは楽しみながらやることだとずっと信じてきたこと。PCRの発明も、子供の頃、サウスカロライナの田舎町コロンビアで遊びでやっていたことのほんの延長線上にあること。PCRは、分子生物学に革命をもたらしてやろうと考えて発明されたわけではなかったこと。むしろ、自分の実験に必要な道具としてPCRは発明されたものにすぎなかった。事実、当時、自分はほとんど素人同然だった。もし自分がしようと思っていることについてもっといろいろな知識をもっていたら、それが邪魔になってPCRは決して発明されていなかっただろう。そう私は話した」(注24)
(以上)
(注1)PCR(=Polymerase Chain Reaction, ポリメラーゼ連鎖反応)の原理:DNA1分子から数百万個のコピーを、短時間で増幅する技術。増幅のサイクルは、次の3つのステップから成る。
(1)変性(2本鎖DNAを加熱してDNA鎖を1本ずつに分離させる)
(2)アニーリング(プライマーと呼ばれる、相補鎖合成の起点を示す短いDNA分子を結合させる)
(3)伸長(DNAポリメラーゼが相補鎖を合成する)
(1)~(3)のサイクルを数十回繰り返して、標的DNAの正確なコピーを指数関数的に合成する(下図)。
(出所)Thermo Fisher Scientific, PCRの基礎知識.をもとに筆者加筆
(注2)キャリー・マリス, 福岡伸一訳[2004]『マリス博士の奇想天外な人生』(ハヤカワ文庫), 早川書房.
(注3)上掲書, p.18.
(注4)上掲書, p.21.
(注5)上掲書, p.23.
(注6)アーサー・コーンバーグ, 上代淑人監修, 宮島郁子・大石圭子訳[1997]『輝く二重らせん——バイオテク ベンチャーの誕生――』メディカル・サイエンス・インターナショナル, p.310.
(注7)ジェームス・D・ワトソン=アンドリュー・ベリー, 青木薫訳[2003]『DNA——すべてはここから始まった——』講談社, p.225.
(注8)ポール・ラビノウ, 渡辺政隆訳[1998]『PCRの誕生――バイオテクノロジーのエスノグラフィー』みすず書房, p.12.
(注9)
(注10)ポール・ラビノウ, 渡辺政隆訳[1998]『PCRの誕生――バイオテクノロジーのエスノグラフィー』みすず書房, p.1.
(注11)キャリー・マリス, 福岡伸一訳[2004]『マリス博士の奇想天外な人生』(ハヤカワ文庫), 早川書房, p.41.
(注12)上掲書, p.43.
(注13)上掲書, p.45.
(注14)アーサー・コーンバーグ, 上代淑人監修, 宮島郁子・大石圭子訳[1997]『輝く二重らせん——バイオテク ベンチャーの誕生――』メディカル・サイエンス・インターナショナル, p.310.
(注15)ポール・ラビノウ, 渡辺政隆訳[1998]『PCRの誕生――バイオテクノロジーのエスノグラフィー』みすず書房, p.236-238.
(注16)キャリー・マリス, 福岡伸一訳[2004]『マリス博士の奇想天外な人生』(ハヤカワ文庫), 早川書房, p.322.
(注17)上掲書, p.54-55.
(注18)上掲書, p.55.
(注19)上掲書, p.129-133.
(注20)上掲書, p.49-50.
(注21)上掲書, p.161.
(注22)上掲書, p.166-167.
(注23)ジェームス・D・ワトソン=アンドリュー・ベリー, 青木薫訳[2003]『DNA——すべてはここから始まった——』講談社, p.225.
(注24)キャリー・マリス, 福岡伸一訳[2004]『マリス博士の奇想天外な人生』(ハヤカワ文庫), 早川書房, p.51-52.